アメリカ(文学)という物語

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ケリー・ライカートとコルソン・ホワイトヘッド

なんとなく、ブログを始めてみようと思った。

仕事で、本心や自分の興味とかけ離れた文章(というと言いすぎだけど)を書いてばかりいるせいか、自分で自分のことがよくわからなくなってしまったところもあって。Twitterも好きだけど、140字という制限のないところで、また違う性格のものを日記みたいに書いてみるのもいいかなと思って。

 

最近見たケリー・ライカート特集上映の影響で、アメリカが、大学生以来、自分のなかで何度目かのブームになっている。ケリー・ライカート特集のパンフがとても面白い。

柴田先生(「わからなさの尊重」という文章で、安易に意味や物語を見出さないというのが、自分が映画を見るときの態度にも近い気がした)や長島有里枝さん(周縁化され制限されてきた"女性の作り手"としてライカートに共感しているところとか深く頷く)が書いているのもよかったし、町山広美さんがタランティーノを引き合いに出しながら(実際、お互いに言及し合っているそうで、そのことも紹介しながら)ライカートを語るのとか、今読み返してもとても面白いし、村尾泰郎さんという人の、Yo La TengoをはじめUSインディーという音楽ジャンルについての記事もよかった。「オールド・ジョイ」にカート役で出ていたWill Oldhamは、ミュージシャンでもあるらしく、彼の音楽も少しずつ聴いていきたい。

 

一緒に並べて撮ったのが、今読んでいるコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』(半分くらいまで来たので、感想は読み終わったらまた)。

 

ところで、なんで自分はアメリカ文学に惹かれるのかなと、実はよくわかってなかった。現代にしても、近代にしても、日本文学が好きなのは、わかりやすくどこか自分に通じるものがあるからなのかなと思うし、韓国文学は、同時代性みたいなの(今、自分はどこに立っているのかを明らかにしてくれるというか)に惹かれているのだと思う。

 

もちろん、アメリカ文学のいろんな作品の中に、自分に近いものを見つけることもあるけど、たぶんそれ以上に、アメリカという国の成り立ちや歴史も含めて、「アメリカ」を一つの物語として、面白がっているのかなと思った。それが最近、改めてなのか、意識して思ったこと。これは一つの発見だ。